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「嘘を吐いた事はありますか?」

恐らく此の質問に「いいえ」と答えられる人は・・・・・世界中探しても100人も見つけられないと思います。
今日、何の因果か、普段は見ないテレビの二時間ドラマを見ていまして、ふと其の事が過りました。ドラマの内容については途中から見ていたもので全体的に話が把握しきれておらず意見・感想等は無いのですが、非常に印象的なシーンが有りました。

ドラマの終盤、過失致死を行ってしまった男性が、後日、幸せそうに同窓会に顔を出して旧友との親交を深める中、其の心には人を殺めたと云う思いが心を巡り、気が気ではなく、そして笑顔の裏側にどす黒い陰を背負わずにはいられなかった姿。

其の姿を見ていて、ふと自分自身と重ねて見てしまいました。

今年の三月末に祖父が他界した折、僕の友人達がわざわざ一度も顔を見た事の無い祖父の為に通夜に来て頂いた際、皆が皆、「でも、オマエは就職出来たんだから良かったじゃねえか!」「オマエは唯一俺等ん中で這い上がれる可能性を持ってんだから」と、2週間程前に就職が決まった事をメールで知らせていた所以、そう励まされたのでしたが、哀しい話ですが、祖父が他界する2日前に僕は既にクビになっていました。

僕は其の時、当たり前の様に「ああ、そうだね」と嘘を吐きました。

それだけではなく、葬儀に訪れた親族縁者の皆様にも其の事に触れられると「はい、そうです」と嘘を吐きつづけました。

当時は祖父の他界と重なり、時をほぼ同じくして起きた僕の失敗を親族縁者そして友人等に話す事は、祖父の他界に輪をかけて他の方々に苦い思いをさせてしまうのではないかと自己判断し、唯一真実を知る母に先にこう述べるので真実を明かさないで欲しいと口止めし、嘘を吐き続けた思い出が、ドラマの内容と重なって思い起こされて、ふとメランコリックな気持ちにさせられました。

今思えば、四十九日を過ぎた日に叔父叔母には真実を述べて謝罪しましたので、嘘に嘘を重ねる過ちを犯さずには済みましたが・・・・以後、友人等には2ヶ月以上連絡をとらず(電話が来てもメールが来ても返事をせず)ただ、一人・・・・自分の吐いた嘘に悩み苦しんでいた事、そして、勇気を振り絞って友人等全員にあの時は嘘を吐いていた事の謝罪を行った事。それで禊は済んだ等と思い上がっていた節も有りましたが、上記のドラマのシーンを見て、禊でも何でも無く、嘘は嘘として延々自分自身を縛り続け、自分自身を其の呪縛から解放しない内は、嘘との決別とは言い切れないのではないかと、心の奥に潜んだ後ろめたい気持ちが胸をぬるりと上って来た瞬間、ふと気付かされた次第です。

今、其の嘘と決別、過去の弱く脆く・・・・そして其れが故に無駄なプライドだけで肉体を象っていた自分との決別、そのために、大型自動車免許を取得し、柔道を習い、簿記の勉強を行い、ひいては其れが目標として警察官になるための一つのステップであり、その階段をまだ一段一段自分の歩みで上らざるをえないのかと考え、今を生きている次第です。

嘘とはとても重たいもので、嘘を吐くとまた其の嘘を覆い隠すためにさらに大きな嘘を吐き、雪だるまの如く自分の心にのしかかるものだと僕の中では自覚しています。その嘘との決別、否、過去吐いた嘘を『是正』し、其の嘘もまた自分の一つの過ちで有り階段の一歩に過ぎなかったと考え、その段に嘘を置き去る事が出来る日はそう遠くはないと思いますが、せめて此のブログに記した上で、所信忘れずに歩みたいなと考えています。
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長らく書く事が出来なかった「生殺与奪」についての話を書いてみようかと思います。
この文章は、1ヶ月前に途中で力尽きた過去の自分の文章と、今の自分が思う事への文章が入り交じっておりますので、若干意味が通じない&言ってる事が前後で食い違っている部分が有るかもしれませんが、ご了承下さい。

−−−−−−−−−−−−−−−−


1.肩パンとヒエラルキー


他者の生命を奪う行為。其れを犯さずに居られるのは、ほとんどの人間が持つギルティ=観念的な罪とクライム=法的な罪と云う「縛りの感情」を共に感じて一歩踏みとどまる事が出来るからなのだと思います。

但し、大半の人間が上記の通り折り合いの中で生きているのでしょうが、時折其の縛りを外す事の出来る人、殺人者が居るのも世の中の常です。

更には、ハーマン・ウェブスター・マジェットの様に「息を吸う様に人の命を奪う」事の出来る者も居ます。

何故だろうか?
マジェットは自らの行為をして「熱帯の虎が人間を食うように、いったん血への渇望が沸き上がれば、切り刻む女を捜して歩いた」「私が人を殺すのは、詩人が詩を詠うのと同じだ。」と述べているからも理解出来る通り、彼にとって殺人は酸素で有り猟奇が麦であり血肉が肥沃なる大地・・・・。言わば、日常の風景。誰しもが拝む朝の太陽、宵闇と星空、其れと同じく自らの歩み人生の中で、殺人・・・・否、「殺し」もまた一つの「風景」として認識・肯定していたのだろうと思います。
「縛りの感情」なぞ元から無く。不快害虫の命も愛玩動物の命も人間老若男女の命も、其の全てが「自分以外は価値は無い」と考え、酸素を吸う様にパンを食べる様に蹂躙してきたのだと・・・・。

で、考えてみますと。
どちらが生命活動を行なう者として正しい生き様なのでしょうか?
頭のイカれた野郎だと思われてしまうかもしれませんが、僕は下記のマジェットの様な人物が一番(生物として)正しい生き方だと思い、次に、時折「箍」を外して私利私欲の為に他者の命を奪う殺人者が続き、最も生命として正しく無い生き物はギルティとクライムの狭間で生きる我々小市民では無いかな?と。

寄生獣の猟奇殺人犯・浦上が「自分が最も人間らしい人間である」と、興味本位での猟奇殺人と障壁を除去する為のやむを得ない殺人の両方を肯定する為に声たからかに申し上げていたシーンをふと思い出すのですが、アレに通じるものが有りますね。

いや、人間ってさ、無意識に他者を蹂躙する事に関して云えば、間違い無くどんな聖者でも今の今まで行なってきた事では無いのかな?なんて思うんですよ。
キリストだってブッダだってムハンマドだって、その踏破した足跡に無数のもの言わぬ虫けらが居たと思いますし、例えば学校でのテストや運動の順位争いみたいなミクロな話になりましても、勝つ者が居れば負ける者が居る、勝者が敗者を『無意識に』蹂躙している事に勝者は全く気付く事なんか無いじゃないですか。

其の意味で、他者を「踏み躙る」際、其の意識の中にギルティとクライムなんて高尚な観点なぞ無く「オレが」「私が」の自分本位の意識しか存在しないですよね、この考えを殺人と云う概念に置き換えてみると、自ずと、息を吸う様に人の命を奪う究極の人間との違いなんて無くなると思います。

今、コレを読んで、テスト勉強での勝敗と猟奇殺人を一緒に並べるのは明らかにオカシイだろうと思われている人も居るかもしれませが・・・・僕には、正直な所、其の違いなんてものが全く理解出来なかったりするんですよね。


踏んだ。


其の事実に関して言えばどちらも一緒じゃないか。


殺す事も勝負に勝つ事も、結果として誰かを踏みしだいて得た「ポジション」では無いのか。




そこで。
ふと思い出したのが、学生時代の肩パンについてなのですが。
肩パンってご存じでしょうか?男子学生ならば記憶に有ると思います。ジャンケンをしまして勝った方が負けた方の肩を1回パンチするゲームですが・・・・、其れ以外の時、無意識に相手に挨拶がてらパンチしてしまう瞬間・・・・と言いますか、本人は「お茶目」や「友情」の伏線としての行為にあたるのかもしれませんが、其処にも明らかなる「踏んだ」「踏まれた」の関係からの「ポジショニング」若しくは「ヒエラルキー」の問題が見えてくる様に思います。

何故殴るのか。
其れは、猿山での順位争いのマウンティングの如く、無意識・・・・いや在る意味では確信有きの優劣の付け方なのでしょう。

そうする事で、自らのポジショニングに確証を持ち、オレはコイツよりも上、オレの方が優れていると自らに言い聞かせているのだと。
人はポジションを所望する生き物で、何処かに腰を落ち着かせていないと自らが何者であるか理解出来なくなるフルーツバスケットが大好きな生き物なのだと思います。

上記しました殺人の話に戻しますと、己が己で在る為の確証。己が己に対して正直で有る為の確証として殺人を用いる様、其れと下記の肩パンとも非常に似つかわしいものでは無いかなと・・・・一方では肩をシバく事でギルティやクライムの精神的な縛りを感じずに椅子を所望し、一方では誰にも邪魔されぬ自由な感性でナイフと銃と拷問危惧で他者の命を奪う事で椅子を得る。其の違いに関して云えばあのエライ発明家も凶悪な犯罪者もさして変わりは無いと思うんですよね。

如何なる行為でも、肩パンに通ずる「ポジショニングの確認」が有り。
其の行為がギルティとクライムに苛まれながら擦り合わせラインの上、人間が自分勝手に生み出した世界の規範とやらの上で繰り返され。
その柵を越えた自由の丘で、生命として正しい行動、蹂躙する事への意識を持たず己が絶対者であり其れ意外は全て踏み躙られるために存在する地面でしか無いと本能で理解して生きる者。

要は、薄っぺらの倫理と云う皮の一枚上と一枚下で似た者同士が鏡を見る様に行動しているだけなのかもしれません。



−−−−−−−−−−−−−−−−



うーん。
無理矢理、過去の「肩パンとヒエラルキー」「己が己で在る為の自由な感性」を繋げ合わせてみた所、恐ろしく精神不安定な文章を書いてしまったなぁと、自分に反省しきりです・・・・・。明日の「ボノボのホカホカとともだちんこ」では、こんな実験的な書き方では無く、もうちょっとしっかりとしたプロットを組んで中身の有る文章にしたいなと思いながら・・・・疲れたので寝る事にします。。。。
夜分遅くこんばんは。anpoliことhisakiです。

実は、今まで色々と文章を練り直していたのですが・・・・。なかなか頭の焦点が定まらず、明日も仕事が有るのでもう寝ようかなと考えておりました。

http://japanlove.iza.ne.jp/blog/entry/583451/

去る5月22日、もう一つのブログで、生物学的見地での『障壁の除去』と『甚振り殺す事の意味』其れと死と殺害の概念と云うテーマでizaブロガーのひかりさん(僕のHPの闇さんと同一人物です)に、専門家としての見地をご教授頂いたのですが、其れに対してのアンサーを出せぬまま、もう8日も経ってしまいました。

小咄を書くのと同じく、あーでも無いこーでも無いとワケのわからないプロットを立てては消してを繰り返して、どーにか自分の思い描く答えに近づいているようにも思うのですが・・・・文章の感覚が思い描いている其れに届かずに四苦八苦しています。

最近。自分はつまらなくなったなぁと思う事が有ります。

izaに於いての発狂文章もそうですし、何より、こちらのブログで「書きたい」と思っている事の1/10も書き表せない程に文章がエアポケットにハマってしまったというべきか・・・・。

長いインターバルを取ろうとなかなか以前の様な感覚が戻りません。

今日、珍しくizaブログで本気の文章を書いてみたのですが、過去のエントリーから比べると格段にレベルが落ちているのが自分でも理解出来て・・・・うーん。

キーボードをたたき壊した(筆を折りたい)気分です。



いや、この辺でヤメておこう。愚痴は。



そうそう。
頑張って明日UPしたいのですが、ひかりさんのマクロの視点(専門家としての視点)とは別に、何処にでも咲いている凡百のハンバーグで有る僕が思い描く生物の根幹に根付く「生殺与奪」の概念の話について。

三段噺的に三つのテーマで分けて書いています。

テーマと言いますか、タイトルと言いますか。こんな感じの流れで。



1.肩パンとヒエラルキー

2.ボノボのホカホカと友だちんこ

3.ヒキコモリの合理性




断片的な文字だけ見ますと全く意味がわからない内容ではありますが、これらが全て生命の生殺与奪と生きる意味喰らう意味に繋がる様に、もう少し文章を練り直したいなと考えています。

ああ。駄目だ。
何書いてんだかわからん。頭が回っていない・・・・。

おやすみなさいです。。。。
先日、ネットを徘徊しておりまして素晴らしいウェブ広告を発見しました。




それは、夢ですか、リスクですか。

赤ちゃんを用いての問い掛けタイプの広告はよく目にしますが、ポジティブな問い掛け型のものが多数を占める中で、敢えて突き放す様な質問ですよね。

生まれた瞬間から夢とリスクを両備えで歩まされる人間。
いや、両備えでは無く夢の裏面にリスクが有り、其れを存じるが故に人間は歩む手前で思い悩むのか。

進む為には足元に茨が有ろうと、死体が犇めいていようと、邁進せねば夢へと進む事が出来ない。其れが人間の持ちたる宿命で有り命題なのだと思います。

逆に言えば、何もしなければリスクはやって来ないものと思います。
死を一つのリスクと見るならば、時がやがてリスクを届けてくれはするのですが。。。。最大のセルフディフェンスと呼べる「夢を捨てる。希望を捨てる。命題を捨てる。」事で、限りなくリスク・・・・・例えば、挫折や屈辱や無念といったメンタリティのリスクに涙を飲む事も無く、草花の如く平穏に破滅へのカウントダウンを待つだけの生き人形で居られるのかもしれません。

まぁ、でも。僕は人間だからこそ、そんな守りの人生は嫌だな・・・・。

この広告を見て、色々と考えが巡り、これからの小咄を書く上でも非情に有用な情報を得る事が出来たなぁとしみじみ思慮している所です。
そして、リスクから身を守る為に保険が存在すると云う最終的なコンセプトの行き着く先も存じておりながら、保険先掛けの『人生』も何か違うのかもな・・・・なんて、折角の東京海上さんの素晴らしい広告にケチをつける様な発言ですが。僕なりに思う所です。
ふと気付くと、ブログを初めてから1年半ほど経っている事に気付きました。うーむ。光陰矢の如し、ですね。あとホームページも1年経ってましたん。

やはり、有る程度の月日が経つと人間は落ち着く所に落ち着くもんで、ある程度自ら『振り子』の範疇の中で心の通った人との対話を続けていった結果「ネットの中の己」が(自身では認めぬまでも)出来上がりつつ有るなぁと昨今は感じております。

そう。
人間って、なんだかんだで耳に心地よい言葉を交わせる人達で群れ集う習性の生き物なのかもしれませんよね。
例えば、思想的に近しい人、ネット右翼はネット右翼と、ネット左翼はネット左翼と群れ集って馬鹿の品評会を毎度毎晩繰り返しておりますが、在れも「耳に心地よい言葉を交わし合える仲間と群れ集う事」の典型では無いかなぁと思うんですよね。

で。
群れ集うと云う事は、それに準じて排除する存在も必要となる。
人間は必ず「仮想敵」なるものを作り、其れを批難する事で自らの立ち位置に安堵感を覚えようとするしょーもない一面もありますが、自らのグラつく足場を踏む固める為に「蔑み」を用いなければいつでも転んでしまって自らを見失ってしまうのかなと、他所の人も然り、そして僕自身のチョロい神経を見るに付けてそう思わされてしまいます。

僕自身、仮想敵・・・・と表現するべきなのでしょうか、ネットの中で出会う人々の中に「嫌いな連中」が存在します。
其れは、2ちゃんねるに湧いてらっしゃる一部のアホやネット右翼諸先生方々と云う小カテゴリーの存在では無く。

『箱庭の正義を振りかざす人』

と云う、大カテゴリーの存在です。


どういった方々かと申しますと。


事件が有りました。人が殺されました。犯人が捕まりました。

「殺せ!!こんなヤツ生きている資格なんか無い!!今直ぐ公開処刑にしろ!!」


中国の東トルキスタン弾圧の映像が流れ、其の中に『公開処刑』の映像が紛れていました。

「公開処刑なんて蛮族の行なう事だ!!絶対に中国を許すな!!国交断絶し必要と有らば日本国内の支那人を全員捕縛し強制収容所に移送せよ!!」


ナチス・ドイツのホロコーストにより多数のユダヤ人が犠牲となりました。特に、ガス室での無差別な殺戮は凄惨極めるものでした

「酷い!!人間のやる事じゃあ無い!!許せない!!どうしてこんな酷い事を同じ人間に対して出来るんだ!!」


在日朝鮮人対して暴動が起こり、一部の暴徒が彼等に激しい暴力を振いました。

「チョンは人間じゃないから殺しちゃえよ!!ボコったヤツはグッドジョブだ!!」



まぁ、こんな感じの人でしょうか。
いや、凄惨な事件に対する怒りを持つ事も、中国の蛮行に対し義憤を燃やす事も、ホロコーストと云う存在の有無に疑念を持たれて問われる事も、在日朝鮮人の方々に対する下らない侮蔑意識を吐き散らす事も、何かれっきとした「意味」を持たれているならば、最後の在日朝鮮人云々を吠えられる方々にはお相手したくも無いなとは思いますが、其処は個人の思想の自由かな?と許容出来ます。
問題は、上記4種類の言葉を『全て用いられる方々』についてなのですが。
一貫性も無く、ただ己の感情の赴くままに怒り狂い、器いっぱいにひたひたに広がる日々の憤りの水面から漏れたる其れをまき散らし、そして以上の行為を全て「正義の側から行なわれている」と錯覚されている方。すなわち、己が独善主義を正義の鉄槌と錯覚されている「正義ごっこ」をされている方々。
そういった方々の文章を見てしまうと、本当に悲しい気持ちになってしまいます。

もし、ご理解頂けない場合には、上記のやりとりを1セット→エンドレス」として読み回して頂ければ『箱庭の正義を振りかざす人』とは何たるかがご理解頂けるかと思います。



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そうそう。
上記の『箱庭の正義を振りかざす人』について思う所が有ります。
偏見と言われてしまうかもしれませんが、上記のタイプの出汁をうすーくした感じの方々のサンプルとして「主婦ブロガーさん」に多く見受けられる様な気がします。
上記の極端な例をそっくりそのまま遂行されているワケでは有りませんが、その時々で「殺せ」「消せ」「無くせ」「死ね」とニュース記事に罵詈雑言を吐かれた後に可愛い動物の画像を貼付けて「動物って素晴らしいですよね、愛を感じます★」みたいな、そんな流れを延々繰り返している様な。
全ての主婦ブロガーさんが先の例の様な浅慮の具現化然では無いと思っております。むしろ、こういった手合いの方々はごく少数に限られたものだとは充分存じておりますが、どうも僕の目に飛び込む主婦ブロガーさんの中では、このタイプの方々が最も存在感が大きかったりします。

いや。
一重に、其の方が人の親であるとしたら、その子供がとても可哀想だなと云う気持ちが色眼鏡になっているのかもいれませんが。

そんな『箱庭の正義を振りかざす人』に対抗しうる言論方法が有るとするならば、自らの軸がぶれぬ様に自らの言葉に責任を持ちながら述べ続けるだけなのかもしれないな・・・・とは思うのですが。

僕は、真面目な顔して真面目っぽく言葉を述べていれば真面目で誠実な言論人と錯覚されている『箱庭の正義を振りかざす人』を多々見受けるからこそ、あちらのブログでは笑いと云う手法で言葉を述べて行ければと、これからもぶれず曲がらずひねくれずに進んで行きたですね。うんうん。

うーむ。
最近、沢山メールを頂いているのですが、なかなかお返し出来ずに申し訳有りません。と、云うのも、なるべく「ベスト」のメールを送りたいもので、モチベーションが高まらない時ってなかなか「返さなきゃ!」と思っていても筆が進まぬもので、こういう所でマイペースな自分がよく出てしまうなぁと反省しきりです。
明日、早起き(4時起き)で返信メールを書きます!


さて。
あんまり関係無い話なんですが。


思うに。
蟻とキリギリスはどちらが優れた生命体なんだろうな?と、ふと考えてみたんですが。そもそも、優れた生命体とはいったいなんぞや?でしょうか??

イソップ童話の中では、マメに働く蟻が素晴らしい生命体で怠けてばかりいたキリギリスは劣等なる生命体と位置づけていましたが・・・・僕は違うんじゃないかなぁ?って思うんですよね。

いや。蟻は蟻で素晴らしい事は認めますが、マメに生きる事こそがはたして素晴らしい生命体である証明なのかな?と。
むしろ、蟻は「蟻」である自らの特性を己自身で理解し、自らの能力で出来うる最大限の才能を行使出来た事、すなわち「自らが何者であるか」を理解した上で、背伸びもせず卑屈にもならずに生きれたからこそ素晴らしい生命体であったのではないかな?と思うんですよね。
そして、キリギリスの最大の過ちは、「自らが何者であるか」を存ぜずに過大評価(若しくは過小評価)をしてしまったのが原因で、あの体たらくに陥ってしまったのでは無いかなとも思うんですよね。

コレって、人間にもよく当てはまると思います。

「敵を知り己を知れば百戦危うからず」と云う諺も有りますが、其れと同じく、一番の味方で有りそして一番の敵でも有る「己」を理解出来ていなくては、どんな生命体であろうとも自らのポテンシャルに合わない生き様を歩まねば行けないんだと思います。

即ち。
強者であろうと、弱者であろうと、「自らが何者であるか」を存じて、分相応に行動出来る者、自らの利点も欠点も解した上でポテンシャルを最大限に生かせる者こそが本当の意味での優れた生命体なのかなと、最近ふと考えておりました。

そして。
ジョジョの奇妙な冒険の最強のスタンドは、恐らく、第六部で登場したジョンガリ・Aの「マンハッタントランスファー」では無いかな?と、この理論から導き出された次第です。




条件が合えばどんなスタンドでも最強になりうるのかも知れませんが、其れ以前に、人間なんてドタマに一発ブチ込めば終わりと云う「欠点」が存在しますし、その意味で、最も効率の良い攻撃方法「不意打ち」を得手として、且つ、スタンド自身が攻撃されてもスタンド使い自身にはダメージが無いと云う「利点」も考慮し、最後にジョンガリ・Aの超人的な狙撃力を考えれば、ほとんどの相手(ディオの様な吸血鬼はちょっと厳しいけど)を葬り去る事が出来るのではないかな?と。そんな妄想をふと巡らせておりました。

眠い。ZZZZ・・・・
こんばんは。10月ですね。
北海道は、もう長袖じゃなきゃ生活出来ないくらいの寒気で朝晩の眠りを阻害される様になりました。


うむ。


それとは全然カンケー無いんですが。

休みを利用して、長編小咄「イナーシア」をずーっと書き進めていました。
そろそろ第一話(序章)の完結まで書けそうなんで、出来上がり次第、ヘタクソなイラストも合わせてアップ致します。


そうそう。
この小咄(いや実際相当長い物語なんだけど)のテーマって実は沢山有るんですが、その中でも「夢」「嘘」を深いテーマの一つとして扱っています。
今回は、其の「嘘」について。
前回の「手前味噌思想」の中で「今までついた嘘を包み隠さず吐露する事は出来るか?」と云う事を書き込んでいるのですが。


それと似た考えかもしれませんが。


「嘘」の回収時期っていったいいつ頃なんでしょうか??


いや。思うに。
人は一つ嘘を吐く毎に、其の辻褄を合わせる為にもう一つ嘘をつかなくてはいけなくなるじゃないですか。
そうしている内に倍々ゲームで「嘘」が膨れ上がり・・・・・2が4に、4が8に、8が16にと「嘘の連鎖」が続いて、いつしか取り返しのつかない状態までに借金の如く嘘が溢れかえってしまうと云う事、どんなに嘘を吐かないと豪語する人でも必ず一度は経験したで有ろう事態では無いかな?と思います。

その、吐きに吐いた「嘘」っていったい「回収」する事が出来るのか。
最初に吐いた嘘くらいで有れば「アレは嘘でした」と即座に回収出来るのですが、吐き続けて凝り固められた嘘は、最早「真実」に等しい程の感情が血脈の如く流れてまるで生き物の様に自らの預かり知らぬ所まで跳ね上がってしまうじゃないですか。

その、回収出来なくなったモンスター「嘘」

其れを回収する方法を、現在模索中です。


ちなみに。
創価学会の教義だったかな?嘘も100回吐けば真実になる。みたいな。
そして、中国や朝鮮、そして勿論日本も「嘘」を100回以上は吐き続けたのが原因で、真実にも等しいモンスターが跳梁跋扈しているじゃないですか。

いや、其れだけじゃない。思想家吐いた嘘。犯罪者の吐いた嘘。ポップスターの吐いた嘘。大女優の吐いた嘘。宗教教義者の吐いた嘘。子供達の吐いた嘘。大人の吐いた嘘。老人の吐いた嘘。世界の王者が吐いた嘘。乞食の吐いた嘘。男の吐いた嘘。女の吐いた嘘。全ての嘘が最早回収不可能な状態に有り、全ての嘘が時折真実にまぎれて浮遊し、其れを僕達が「真理・バックボーン」として背負っていたりとか・・・・考えたらキリが無いじゃないですか。



嘘。
嘘って本当に大きな怪物なんだと思います。



ふと。
真実と云うのは、この世界には存在しないのかもしれないな。なんて、ここ最近は思う次第です。いや、真実が有るとするならば、己自身の「死」のみなのかもしれないな・・・・なんて。
まとまり切らない話ですが、考えるとキリの無い。読んでる人にとっては下らない話でした。。。。。


嘘のオーバーフロー


そんな言葉が浮かびます。
過去にも書きましたが。
屈辱への復讐こそが人間を最も前進させる力なのではないか?と思います。

むしろ、屈辱を「根に持つ」事こそが、人間を爆発的に進ませる力の源ではないか??とも。

僕は、非常に執念深い人間で、一度受けた屈辱の記憶は絶対に忘れる事は有りません。如何なるときも自らの心の底でふつふつと煮えています。
そして、その「怒り」の感情を陽の力、即ち前進する力・突破する力に変換出来る人こそが、自らを更に研鑽出来る人間なのだと考え、其れを実践する次第です。

最近受けた屈辱として。
僕は、北海道在住でほとんど北海道から出た事の無い人間なのですが。
悪意は無いのでしょうが、ヤツは北海道から今までもこれからも出る事が無いと言われてしまった事に対して、酷く、コンプレックスと憤りを覚えました。


確かに其の通り。
ですが、其の通りだからこそ、自らに対して怒りの念が湧き上がります。

僕は、現在の職場が好きですし、一宿一飯の恩を感じて、クビになるまで会社に恩返しをしていこうと考えていますが。

正直。非常に悔しいです。

今年は、一度、北海道から飛び出してみようかとも。考えております。
そして、もし、会社から必要とされなくなった時に、思い切って北海道から出てみようとも考えています。






時折「今までも、これからも北海道を出る事は無い」と云う言葉で、眠りにつけなくなる、心の狭い僕でございます。うーん。
よく、死刑論の話になると僕は他者から「死刑を望まない愚かな似非平和論者」と思われがちなのですが。


http://www.iza.ne.jp/news/
newsarticle/event/crime/79759/



この事件に於いては、三人の罪状の重い軽いに関わらず等しく「死刑」にすべきそう思います。

本来、一人を殺害したという根底的な結果からすれば絶対に死刑があり得ないのですが、この事件が起きた背景を考えると到底人間の行なえる所行とは思えません。

否。
殺害方法の凶悪さもさる事ながら、僕はこの「行きずりで未必の故意的」な事件は、宮崎勤の様な異常嗜好犯罪やアメリカの銃乱射(コロンバインもコリアン系米国人のどちらも含む)よりも、凶悪且つ防ぐの極めて難しい犯罪では無いかと思います。

後者、宮崎や銃乱射に於いてはその犯罪の根底に、巨大な劣等感と云う極めて理解し易い犯罪の因子が有り、僕が過去から毎度提言を行なっている「犯罪者は犯罪を犯す0.00001秒前まで被害者かもしれない」という概念から、犯罪を犯す前に「救う」事も出来た可能性が充分有ると思うのですが。この犯罪の背景云々を見知った上で、極めて防ぐ事が難しいと見て間違いないでしょう。


二人が無職で一人が新聞勧誘員であると云う話以前に「仲間を見つけて行なう」と云う極めて「社会的・計画的」でありながら、犯行を行なう事へのプロセスが「金が欲しい」で、自首した理由が「死刑になりたくないから」と云う「打算的」な発想。
すなわち、仲間を集うと云う「計画的理性」が有りながら、打算で金を奪う方法を発案し其れを行ない、打算で被害者を殺め、打算で自首を行なう。其の何処に先ほど話しました「犯罪者は犯罪を犯す0.00001秒前まで被害者かもしれない」と云う概念が通用する部分が有るのでしょうか。


つまり。
宮崎勤や銃乱射の様な起こるべくして起こる犯罪は有る程度の予知が可能。つまり、地震や台風の様にあらかじめ予測可能であり。劣等感や特殊環境下に於かれ判断力の欠如した犯罪は、その犯罪の因子を「向う三軒両隣」の様に、社会に存在する一人一人が監視員であり指導員であるような状況下で有れば、全てとは言わずとも犯罪の因子を予見、そして心を持って接して修正が可能だという事なのですが。
今回の犯罪は、言うならば正に交通事故の様な突発的な犯行。


此処に世間一般で言う所の絶対的巨悪。僕の論から述べますと「誰も幸福にならない瞬間」が存在するのでは無いかと思います。


こういった突発的で仲間を集うと言う社会的理性を持ちながら、それでいて人間の根底に有るべき倫理的計算の概念の欠如した存在は、僕は世の中の言う「異常犯罪者」よりもずっとずっと危険な存在だと思います。


出来る事ならば。
この三匹の薄ら汚ぇ糞畜生に速やかな死を。



そして。
社会的理性を持ちながら倫理的計算の出来ない人間に、僕達、倫理の側に生きる者全てが下す速やかなる心の裁きを。その犯罪の残虐性では無く、行動の稚拙さ惨めさに見下し、嘲笑、侮蔑を。
この三匹の様な犯罪を編み出しつつ有る連中の耳に粘り着く程の「徹底否定・徹底非難」を。


其れこそが、次に同じ犯罪が起きない為の一番の方法では無いかなと・・・・。



被害にあわれた女性のご冥福をお祈りします。
書いて良いコトと書いちゃダメなコト。
線引きってしてます?

とかく、匿名性が強くなればこそ、無意味に攻撃性と暴露性を増すのが人間の暗部の性なのかもしれませんが、僕は「anpoliことhisaki」と云う看板を背負って書き来んでおりますので、かなり制約を持って書き込んでいる次第なんですが。

難しいのは、「節度」って奴ですよね。

過去にも何度か書きましたが、僕は自分よりも1分1秒でも先に生まれた人は僕よりも1分1秒分の経験が有るので頭が良い。と云う持論。これが看破されてしまう事案を多々目撃してしまい。なーんか。インターネットってイヤだなぁと思わされてしまいましたね。

僕の日常生活の周りでは、僕よりも頭の悪い年上の方ってのは一人も存在しない(と勝手に思っています)のですが、何故にモニターを越すとこれだけ「節度」の無い人間が居るのか・・・・正直、不思議に思います。

思うに、「節度」とは「余裕」を持つ者こそが多く有する一種のエネルギーなのでは無いかな?なんて思います。
いやさ。
このエントリーを読んで頂ければご理解出来るかと思いますが。
人間とは、心の「ヒマ」が有るからこそ色々なモノに良い意味で感化されて、優しさや慈しみといった心の涵養が図れるのだと思うのですが。その心のバランスを崩され(精神的疾患と云うレベルでは無いのですが)た方と云うのは、心に「ヒマ(余裕)」が無くなり、結果としてその余裕の無さが「節度」と云う防波堤を下げ、誰かの人生を腐し笑う、誰かの堕ちる様に悦びを感じる、誰かを憎む事で今にも崩れそうな心の維持を行なうといった様な「負のスパイラル」に陥ってしまうのでは無いのかなぁ、と、他所様のブログなんかをしゃかしゃか閲覧していると思わされてしまいますね。

心に余裕が無い→余裕の無くなった空洞の心に不安が沸き起こる→其れに押しつぶされない様に、誰かを憎む→憎悪が増すと心の余裕が喰い潰される→心に余裕が無くなる→・・・・

みたいな。




結局。
憎んだりしててもなんにもならない様に気がしてならんのです。
アイツ死ねーっ。コイツ消えろーっ。と感情のみでキーを叩く。そんなスパイラルを繰り返し、気付くと、自らの崩れそうな心に対してだけ過敏になり、他者に対しては鈍感で攻撃性だけが増した取り返しのつかない「ケモノ」になってしまうのでは無いのか・・・・と。僕は心配になってきます。

うーむ。

今日は、何だか全然楽天的にモノが考えられませんね。
なんか。世の中。特にネットん中は「憎しみ」でイッパイだなぁ。。。。
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突然「趣味?」って聞かれてもなかなか難しいもんですね。
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