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「駄目なヤツは何をやっても駄目じゃなくて、駄目だと最初から諦めているヤツは何をやっても駄目なんだ」

anpoliことhisaki  ひきこもり



こんばんは。anpoliことhisakiです。
早いもので9月もあと数分で終わりです。

実は去る9月19日、警察官採用一次試験を終え、明日10月1日の結果発表を今かと待っている所です。といっても10月1日以降・・・・とお知らせには記載されているので明日の発表では無いのかもしれませんが。。。。

試験の事を思い出すと沢山の失敗を犯したなと反省悔いる点は有れど、自分の出せる力を十二分に出し切って、分数の足し算も解らない所から始めた公務員試験問題集勉強の最終手段として「本に書いてある事を一から十まで全て書き写して身体で覚えさせる」と云うバカなりの肉体式勉強方法を編み出し、特に文系一般知識と判断推理で点数を稼げる様頑張り、絵を描くときですら作らないペンだこを作って夜中まで勉強していた思い出が、今ふと思い出しました。

本日、今年の三月に亡くなった祖父の墓前へと足を運びました。
其れは、「受からせて下さい」と云うご先祖頼みでは無く、五分五分の自信しか有りませんが「受かりました」と自負をもって報告を行う意味で線香を上げて来ました。

明日は、また自分の人生にとって大事な選択肢が得られる日と成る様。
いや、必ず新しい人生の幕開けの日と成る様。
今、緊張で心臓をバクバクと鳴らせながらも、戦々恐々では無く泰然と構えて明日の発表を待つばかりです。

そして、一時通過の暁には、僕の無謀な挑戦に半ば呆れていた友人達にこうメールを送ってやりたいなと考えています。

「駄目なヤツは何をやっても駄目じゃなくて、駄目だと最初から諦めているヤツは何をやっても駄目なんだ」

と。

僕は今日をもって「駄目なヤツは何をやっても駄目」の言葉を捨てます。

では、読まれた方にも、そして自分自身にも良い明日が来ますように。おやすみなさい。
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「思想を憎んで人を憎まず」

三宅久之    愛すべきおじいちゃん





時間が有れば見てしまう番組に、「たけしのテレビタックル」「たかじんのそこまで言って委員会」という二つのバラエティ系政治論番組があるのですが、そのどちらにも出演されているのが、この人。三宅久之さん。
一見、読売のナベツネを思わせる気難しくて独善主義者的な風貌では有りますが(其のナベツネとも深い交流があるみたいですが)憤慨する時は憤慨し、穏やかなる時はにこやかに、そして老齢の割りに明瞭な口調で(少々相手の言葉を遮るガンコさも有りますが)日本を憂い叱咤激励する様に、老人好きな僕にとって気になる人物の一人として注目しているのですが。

そんな三宅さんが言われた言葉の中に「思想を憎んで人を憎まず」と云うのが有り、この言葉の持つ意味を色々と考えさせられる様な出来事がここ最近何度か有りました。

確か、フェミニンの巨匠。田嶋陽子さんをして言わしめた言葉だと記憶していますが。思想では相反する田嶋さんに対しても、そのとんちきな思想を否定はすれど人格は否定せずむしろ評価しようと云う姿勢。其処に現在の僕自身が失いそうになっていた在る事に気付かされた思いです。

実は、このエントリーを立てる前に僕はこんなエントリーを立てようと考えていました。


「リンクには人間性が出る」


すなわち、インターネットの中に於いてその人となりと思想のバックボーンを探るには、まず其の人の「リンク」を見れば理解出来ると云う話ではあったのですが。

僕はネットの中で色々なディスカッションを行なってきた人達が居ますが、その人物を評価する上で僕が一番重用視していたものに「思想家を気取った差別主義者では無いか」と云うのがあり、其れを逸脱(差別主義者論調であれど『わかっててわざとに違うアングルからの答えを求めてやっている人』は除外した上で)した人には徹底した態度をとってきたのですが。

昨今。其の考えに拍車がかかり気味になり、「思想家を気取った差別主義者」をリンクに入れて、差別とは呼べぬまでも一方的独善論調の人までもを疎外してきた感も有り、今日になってふと我に帰り、三宅さんの言われていた言葉を思い出したんですよね。

すなわち。
第一の「思想家を気取る差別主義者」を非難・否定する事は良いとしても、その次にあたる「リンク」の概念からの僕の色眼鏡的視点。其れこそが「思想家を気取った差別主義者」に他ならないのでは無いかと云う事なんですよね。

人間は凝り固まった固定概念を持ち続けると、知らず知らずに、其の嫌いな固定概念の人間の悪い部分に似て来ると言います。
僕はよくネット右翼は、彼等が喚き散らす朝鮮人や中国人の虚像そっくりだと言って憚らないのにも関わらず、僕自身がその穴に落ち込んでいた事に気付き、驚愕を覚えました。

「リンク」なんかで人の価値は変わらない。
そりゃ、「民族性」と同じく「住んでる場所(思想の近しいリンク)」によって考え方に差が出るのは確かな事ですが、其れを見て勝手に妄想宜しく他人を判断するという行為、其れこそが「差別」に他ならないなぁと。。。。。


僕は、本当に自身が幼稚な人間で有ると気付かされました。


そういや。三宅さん。
収録が終わると、普通にそして紳士的に他の方と談笑し、思想が真逆の田嶋さんにも仲良くお話しているなんて話も有り、且つ、田嶋さんも日頃「ハゲ!」と罵る三宅さんとも親しい真柄でお話されていると聞きます。

やっぱ、歳経てこその大人だなぁ。と、尊敬の念とともに、いつの日か、思想が真逆の人とでも日常会話等では楽しくお話出来る様になりたいなと、未熟な僕の感性に反省と喝を入れる次第です。


まぁ。
僕は世間的に見れば、かなり「保守傾向」の強い人間なんで、僕の真逆の人ってのは「リベラリスト」に他ならないのだけど。
だけど。
不思議な事に、意見が合わない人は大抵「保守傾向」の人だったりします。
「胸を張って負け犬になれない者は、勝者にもなれない」

ハル・ベリー      勝者



けっこう有名な話ですが。

http://www.eiga.com/buzz/050301/03.shtml

ハル・ベリーが「キャット・ウーマン」でアメリカの最低映画賞「ラズベリー賞」を受賞し、わざわざあの(良い意味で)ビンボ臭いトロフィーを貰いスピーチを述べ、拍手喝采の中で「大女優」として評価されたって話が有るのですが。

その中で。
彼女の母親が、過去に彼女に語りかけた言葉が非常に印象的でした。


「胸を張って負け犬になれない者は、勝者にもなれない」


彼女は、ラジー賞すらも自らへの「評価」として受け入れた上で、敢えて敗者としての着せられた袈裟をドレスの如く着こなし、人間の底の深さを知らしめ、更なる大女優への路を邁進するステップに昇華させました。
其処には、彼女が母から教わった、勝利とは他人を踏みしだく事のみが勝利では無く、時に敗北の中からも勝利のかけらを紡ぐ事で本当の勝利へと進む事が出来ると云う「敗北が勝利を産む」という極めてメンタリティな「勝利」と云う概念を学んでいたのだろうな、と、毎度この話を思い出すと彼女の人間としての魅力に感嘆の声が出ます。

「屈辱」や「恥」や「敗北」というような、非常にネガティブで忌み嫌われる要素すらも、其処には「勝利」や「栄光」といった物のかけらが埋まっていて、その非常にネガティブな存在を受け入れる事が出来た時に初めて気付く事の出来る「本当の勝利」を見いだす事が出来るのだと思います。

難しい言葉で飾らずに、簡単に言えば。
「負けるが勝ち」
ですね。

負けた時こそ学ぶ事が多いとサッカー日本代表の監督イビチャ・オシムも言っておりましたし、其れ以上に、全力を尽くして尚負けてしまった事は、全力を尽くさずに言い逃ればかりで勝負をしない事よりも、ずっと胸の張れる事実で在る。と云う事なのではないかな?と思うのです。

僕も、今日、ある事実でボロ負けしました。
ですが、僕自身ベストを尽くす事で、負けて悔しいと云う思いも有りますが、言い訳し逃げ回るのでは無く、あえて闘いを挑めた自分の勇気に誰からも送られる事の無い賞賛を送りたいです。

ふと。
苦しい時に、ハル・ベリーの言葉を思い出し、其れを勇気に変える事が出来た日曜日でした。
「俺は本当の神様を憎んだことなど一度も無い。人間が造り上げた神が憎いんだ。」


マリリン・マンソン        トンガリ




率直に言いますと、マリリン・マンソンはトンガリです。
そう。トンガリキッズ。言ってしまえば「くるり」や「B-DASH」とマリリン・マンソンは音楽と表現方法の違いは有れど、トンガってる所だけについては一緒なのだと僕は思います。(全てのファンの方、怒らないで下さい!!ゴメン)

マリリン・マンソンのバックボーンは彼のおい立ちから見て、恐らく「反逆」がテーマの根幹となっていると見て間違い無いと思います。
別に悪魔を崇拝している訳でも無く。ナチスに傾倒している訳でも無い。一人のシャイな男どうやってこの世の不条理を訴え、誰かの心にこの気持ちを届かせる事が出来るのかと腐心した上での昇華が、正にに写真の姿なのだろうと思います。

彼の言った言葉で、とても好きな言葉が有ります。
彼は幼少の頃虐待を受け、厳格な(むしろ狂信的な)キリスト教系の学校にて、盲目的に「クライスト」への信奉を強制された抑圧が、彼の心の中で燃え盛る反逆精神を焚き付けたのだと思います。
そんな彼の言葉で、僕は大変感銘を受けた言葉が。

「俺は本当の神様を憎んだことなど一度も無い。人間が造り上げた神が憎いんだ。」

なのです。

神とは。
神は「盲目を尊ぶ」のならば、恐らく彼は刮目し神に唾を吐く悪魔なのでしょう。
しかし、其れは宗教的罪「sin」の観点からの一方的な断罪で有り、社会的罪「Crime」では無いと思います。
そして「sin」はキリスト教観点からのみでしか裁けぬ罪であり、ともすれば非常に宗教の傲慢の強い、我侭な主張と呼べるのでは無いのでしょうか?

いやキリスト教だけではなく。仏教だってイスラムだって、この世界に存在する全ての宗教が「我侭で傲慢な神」によって、その神の言葉を信奉する神徒達によって古代から昨今にいたるまで血で血を洗い続ける日々が続いているのだと言っても全く過言では在りません。

そんな「我侭な神」に対する反目。
ただ盲目的に存在する物に傾倒し、その存在の規範の外に在るものを否定するだけで、価値を見定める能力の無い者に対して「本当にこのままで良いのか?」と問いかける事こそが、マリリン・マンソンが訴えたい事ではないのかな?と僕は思います。

悲しいかな。
年配ブロガーの方で、実の母親の首を切り落とした犯罪の根底に、マリリン・マンソンの悪魔崇拝有きと語られているのを見受けてしまい。何か切ない感情に襲われてしまいました。

言葉や出で立ちは、決して額面通りだけの価値しか無いわけでは無い。

僕は、そう思いたいですね。
もしかすると、神は。
キリストでもヤハウェでもムハンマドでもアラーでもシッダールタでも大日如来でもアフラ・マズダでもシヴァやヴィシュヌやブラフマーでも天照大神でも八幡大菩薩でも池田大作やバモイドオキやチャールズ・マンソンでも、プルトニウムでもウランでも、ヘールボップでもトータチスでも、ガイアでもマナでも無く。

もしかしたら、僕達の心の中に存在しているのかもしれませんね。
それは、困っている人が助けてあげようとか、素晴らしい人物を知りその生き様に憧れるとか、動物を見ると優しい気持ちになれるとか、誰かを好きになるとそれだけで嬉しい気持ちになれるとか。そんな当たり前の心の中で悪戯して、素敵な運命をプレゼントしてくれているのかもしれないなぁ。なんて、平和ボケな僕は考えます。

そして。
魔人・マリリン・マンソンも、そう思っているのかも知れないな・・・・なんて・・・・。
「そりゃ、人間がそれだけヒマな生き物だからさ」

ミギー    人間




実家に帰省すると必ず読むマンガが有ります。

「寄生獣」 全10巻

毎度、僕自身が日進月歩に考え方が変わり続けているので、読み返す毎に内容の印象や受け取り方が変わり、常に新鮮な気持ちで読む事が出来ます。

恐らく、有名なマンガなのでほとんどの方が概要をご存知かと思いますので、端的に申し上げますと「人在らざる者が命の価値を人に問う」お話と称すべきでしょうか。読まれていない方は是非一度、古本屋ででも読んでみて欲しいなと思います。残酷な内容と若干選り好みをする絵ではありますが、その話の中に詰め込まれた哲学的とも言える世界観に引き込まれ、今一度、人間とは。命とは。と疑問符と共に深い感慨を得る事が出来ると思います。

でね。

主人公に右手に寄生してしまった寄生生物「ミギー」の言葉なのですが。
人間って、あらゆる動物の中で最も残酷でありながら慈愛に満ちた二律背反を背骨として生きる罪深い生き物なんだと僕は思います。
片手で鈍器を握り人を殴り殺しておきながら、もう片手で友情や愛情を確かめあうように握手が出来ると言いますか。
でも、そんな人間が持つ感情の一つで、ミギーが着眼を置いたのが「ヒマ」だったんですよね。
「ヒマ」とは。
僕の友達で、「あーっ、ヒマだぁ。何か面白い事ねぇかなぁ!!」という口癖の人が居ますが、ヒマって人間だけに許された感情じゃないかなぁ?なんて思うんですよね。
最も、この友達の言う「ヒマ」とは全く別のお話なんですが。
座敷犬や飼い猫なんかも日々「ヒマ」を持て余しておりますが、其れってもしかすると「ヒマ」は「ヒマ」でも肉体的な「ヒマ」であるだけで精神的には余裕が無く、日々、生を渇望しながら逼迫した感情で過ごしているのかもしれないな。と思うのですよ。

すなわち「ヒマ」→「心の余裕」なんだと。

また、人間以外の動物、如何に知能が高いボノボやゴリラや象やヨウムやイルカでも「死」という概念が理解出来ないそうなんです。
仲間の負う「苦しみ」や「怒り」までは理解可能なのですが、死を迎えた仲間に対して、その概念が理解出来ずに亡骸を揺すり起こそうとする様は、死を悲しむという感情では無く、むしろ起床を促しているのだと聞いた事が有ります。
母猿が頽れた子猿をずっと抱き続ける理由も「死を理解出来ない」からであると言われています。

でも、僕らは死を理解する「心の余裕」が有る。

そこで、寄生獣の話に戻りますが。
ある日、出会った動物が命を失っていた時、何故悲しいのか?という問いにミギーは「そりゃ、人間がそれだけヒマな生き物だからさ」と答えました。
すなわち、それだけ心に余裕が有り、命や仲間を慮る事が出来るのだ。と。
時折、僕は「命って何だろう」と思う事が有りますが。その答えが此処に在るのかもしれません。
ヒマだから、心を揺れ動かす事が出来、他者を思いやる感情が湧くのだな・・・・なんて。

昨今は、死の概念もそうですが、それ以前に命の価値や人間が人間として存在する意義を見失い迷走する方々が非常に多く見受けられます。
そういった人達は総じて「心に余裕が無い」のだろうと思うのです。

僕等が人間という、他の動物よりも数段「心に余裕」を持つ事の出来る生き物として生まれて来れた事を感謝し、もっともっと皆が「心の余裕」すなわち「ヒマ」に気付く事が出来、且つ、その余裕を慈愛や友情に変える事が出来たならば、人は今よりも争う事無く健やかに生きてく事が出来るんじゃないかなぁ?なんて思います。

そして、そんな事を言っていたミギー自身が「ヒマ」を持った「人間」なんだろうなぁ・・・・。
僕は人間に生まれる事が出来た事を非常に感謝しております。
「空まで飛んでけ!パラグライダー!」

堀内腱    ピーターパン


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このエントリーを書く前に一つ。
実は今回の話はかなり「うろ覚え」の部分が有るので、もしかすると事実誤認の部分が有るかもしれませんが、その場合はご容赦下さい。


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ホリケンのギャグを理解するのは非常に難しい。それはホリケンのギャグをギャグとして「見てしまう」からであり、体で「感じ」心で「受け止める」事が出来れば、きっとその深みを理解出来るのではないのかな。なんて思います。

それは一重に、ホリケンは「メッセンジャー」なんだろうな。と。

かなり昔、7・8年くらい前でしょうか。
当時まだ僕が高校生の時、丁度「笑う犬の冒険」でネプチューンがブレイクし、ホリケンの不条理ギャグもいくらか社会に浸透してきたかなという頃。何気なく新聞(確か読売新聞)を読んでいると、ホリケンと記者の対談記事が乗っていました。
芸能面のようなゴシッピーな記事では無く、社会欄に載るホリケンの表情は普段僕が見慣れていた「キチガイ一歩手前」の顔では無く、にこやかな笑顔を浮かべながらも真剣な眼差しをしていました。

その時の文面には、ホリケンのギャグに対する思いがこう書かれていました。

昔、ホリケンの妹さんが虐められて帰って来た時、ホリケンは妹さんに何もしてあげる事が出来なくて、どうにかして妹を笑わせようと苦心していたそうです。
その折、ホリケンは一冊の絵本と出会いました。
その絵本のタイトルを僕は失念してしまいましたが、内容としては。

ある村に珍妙な行動や顔芸で人を笑わせる事が何より大好きな少年が居て、家族や兄弟や友達を笑わせては愉快に過ごしていました。
ですが、ある日、その少年の父親が某かの罪を犯してしまい、家族郎党全員が処刑される事となりました。
磔にされた家族全員が次々に脇腹に槍を刺されて死んで行く中で、少年の弟は死の恐怖に怯えながらえんえんと泣きじゃくっておりました。
その姿を見た少年は、自らも死の恐怖に怯えながらも、何とか弟の恐怖を和らげるために、顔を七変化させていつも通りの笑いを誘う芸をやってみせました。
少年の弟は、その楽しく歪んで弾ける顔を見て、眼前の死に真っ向から抗えるほどの強い勇気にも似た笑いが湧き出し、処刑を眺めていた観衆にも大きな笑いが巻き起こりました。



そして、弟も少年も。刑場の露となりました。



と、いうような絵本との出会いがホリケンの「笑い」の感性を大きく変えて、今、ああいった、端から見れば全く無意味で下品で幼稚な笑いの能力に昇華したのだ。という話でした。
しかし、ホリケンの「笑い」への第一歩はとても純粋無垢で優しさと強さに満ちあふれていました。そして、時を経て磨かれた彼の「アイデンティティ」は、沢山の人の心を照らす力になり、世を儚む人の心に勇気を与え続けているのだろうと、僕は思います。

その姿に、僕は痺れました。

無意味だからとか下品だからとか、そういった上っ面だけ舐めている人達には決して理解しえぬ彼の「アイデンティティ」を知った時、僕は彼のような真の「笑い」を提供出来る人間になりたいなと、心底感服致しました。

笑いって凄い力が有ると思うんですよ。
怒りや誹りや蔑みや妬みが束になっても叶わないくらいの凄い力。
悲しみという真っ黒い力を洗い流す程の優しさに満ちあふれた輝く力。

そんな力を信じて、今もテレビの前で無意味で下品で幼稚なギャグを繰り広げるホリケンに尊敬の眼差しと深い感謝の念を贈り。そして僕は「メッセンジャー」である彼の「メッセージ」を全身で受け取り、笑いとは何か。勇気とは何かを、模索探求している最中です。

「空まで飛んでけ!パラグライダー!」
「オマエの滑りなら下まで降りるのに何万年もかかるな」

友達    鬼

さて、もう火曜日になってしまいましたが、日曜日、たった一人でボードに行ってました。寂しい人生やね。



本当ならば、札幌国際かレースイ辺りに滑りに行こうと思ったんですが如何せん起きるのが遅く、一番近所に有る地元の山で滑りました。

この山。
僕が小学校五年の頃からスキー学習でよく滑っていたんですが。
一人ボードで滑走しながら懐かしい思い出が蘇っておりました。
小学校五年生の時、元々スキーが苦手だった僕はスキー学習で大恥をかいてしまい、その恥を返上すべく一人でこのスキー場に来て滑る練習を繰り返していました。
その折り、当時はまだそれほど親しく無かった「彼」とゲレンデで会った時、僕が一人、ボーゲンでなんとか必死に滑ろうとしている姿を観て「彼」は笑いながら言い放ちました。

「オマエの滑りなら下まで降りるのに何万年もかかるな」

悔しかった。
悔しくてたまらなかった。
笑いながら「彼」はそのまま滑り降り、僕はその姿を観ながらあまりの悔しさに涙を浮かべていました。
そして、心の中で誓いました。絶対アイツより上手くなってやる。と。

1年が過ぎ。

僕はボーゲンがターンに、ターンがパラレルターンになるまで成長し、気付くと彼を追い抜く程スキーが上達していました。
その時、僕の心に去来した物は、彼を追い抜いた喜びではなくて、頑張り通せた自分への充足感でした。

なんて懐かしい思いでに浸りながら、僕はボードの回転を練習。
ココはスケート場か??と言いたくなるぐらいのアイスバーンぷりでしたが、それでも滑らかな回転は出来なくとも、ほぼマスターしたと呼べるくらいの出来映えになっていました。

そういや、3年前。
同じ友達に、ボードに行かないかと誘われた時に、当時ボードをやった事のなかった僕は「やった事無いからなぁ」とやんわり拒否した所。

「まぁ、豚はチューブでいいよな?」

と言われたのを境に、ボードに対しての奮起が生まれたのだなと・・・・。同じ山で15年前と3年前に奇しくも同じ人物に言われた言葉が僕の体を動かす力となっていた事に、人生の妙を味あわせて頂きました。
見てろよ!僕は、オレは忘れてねぇぞ!!次はボードだかんな!!
・・・・そして、アリガトウ。。。。

なんて、子供みたいな26歳です。
「崩せない方が悪い」

ワッシー君    ウリアッ上

麻雀の話なんですが、ドラの単騎で引っかけ待ちをする人や、2枚切られている字牌で待つ人なんかが居たりすると「セコい」と貶す人がたまに居ます。

いや、僕はそれも作戦の一つであり、色々なスタイルの打ち手が居るからこそ麻雀は多種多様な作戦の練り様が有って楽しいんじゃないかなぁ?なんて思うんですが・・・・如何でしょうか?
また、小役のみで手堅く上がる人に対しても「ショボい」と文句を言う人もたまに見受けられます。友達同士が馴れ合ってやる麻雀でのネタ弄り的な発言ならばともかく、「本気」の場にでそういった発言が出て来ると僕はとたんに萎えてしまいますね。

でね。
それとはまた別の話なんですが。
僕はあんまりゲームセンターが好きではありません。
どうもね、あのピキュンピキュンという音が好きではなく、また、僕は短気なもので負けると勝手に憤慨してしまう癖が有り、どちらにしろ人VS機械ではなく、人VS人が凌ぎを削り合う「鉄火場」的なゲームセンターって苦手なんですよね。

また、インターネットなんかを巡っていますと、ゲームセンターでの相手のプレースタイルが気に食わずに延々ダラダラと相手のプレースタイルを腐していたり、卑怯、もうプレーするなと恨み節タラタラな人をよく見かけるもので、ゲームセンターの世界でもそういったプレースタイルにグダグダ言うヤツが居るのだなと思うと、更に僕のゲームセンターに対する苦手意識に拍車がかかりました。

話は戻して。
僕の友達で、たびたびブログにも名前が出ていますワッシー君という人は、ゲームセンターで対戦格闘ゲームを嗜まれる方なんですが、そんな彼に一度こんな質問をぶつけてみた事が有ります。

「しゃがんで待つプレースタイルとかって、やっぱゲームセンターじゃ御法度なの?」

と。
(ちなみに、僕はストリートファイターⅡ程度の格闘ゲーム知識しかございません)

すると、ワッシー君はこう答えました。


「うんう。ソレをやられて崩せない方が悪い」


なるほど。
僕も確かにそうは思っていましたが、実際に戦場において創意工夫を凝らしている人の発言には重みが有ります。

崩せない方が悪い。

何でもそうだよね。
相手のガードだって、相手の点棒だって、日常においての些細な勝負だって、自らの人生の活路だって全ては己一人の責任でしかなくて、グダグダ文句を言ってても「一瞬スカっとするだけで、現状は変わらない」んだよね。。。。
そう考えると、ゲームセンターにも麻雀にも、個人個人の「背骨」たる哲学が存在し、その哲学を遂行する相手を看破するために、更に自らを磨かなくてはいつまで経っても伸びやしないって事なんだろうなぁ。

ちなみに、僕は過去に「卑怯」云々の発言をゲーム等でしていた節が有るので、余計この言葉は胸に突き刺さりました。

うん。
なんかちょっと、今の自分は駄目駄目だなと思わされる、重くて渋い一言でした。
「美しいものを 美しいと思える あなたの心が美しい」

相田みつを        詩人・書家

僕は、定時制高校に通っていたのですが、ま〜「特攻の拓」や「カメレオン」よろしく、治安の悪い学校でした。
ヤキなんかは日常茶飯事で、学校から一歩出れば、強盗したり、ヤクザの兵隊やって集金作業でカツアゲしまくってたり、夜中に集団でタイヤ屋のショーケース破壊して盗みに入ったり、河原で10対1で一方的にムカつくヤツをぐうの音も出ないくらいにボコボコにしたり、シンナー摺って橋桁に窓ガラスが有って、その窓ガラスの向こうに2塁ベースが有って、どうしても其処に行けなくて発狂したり、自動販売機破壊して売上金奪ったり、族のケツ持ちで現れた本職を知らずに轢いたりと、まぁまぁまぁ、話せばまだまだ埃がたんまり出て来るようなラストブロンクで生活させて頂きました。

でもね、やっぱり悪い事をして「幸福の絶頂」を継続させるのって僕の人生経験上はまず不可能なので、ここで記載した出来事を仕出かした人間は、必ず後にペナルティ(報い)を受けておりました。人生なんてそんな物です。
そして、それは僕も同じ。

まぁそんな頃、僕も僕で、やはり見た目だけでもと気合いを入れ、大した人間でも無いのに、単車を転がして、知らないヤツにガンをくれて、氣志團のOne Night Carnivalよろしく、薄どどめ色の青春を送っておりましたのです。

でね。

一時期、単車が盗まれてしまって、歩きで学校に行くハメになってしまい、とことこと学校へと向っていたのです。
その時、一つ学年が上の、50歳くらいのオバさんが少し前を歩いていて、優しく僕に「こんにちは」と声をかけてくれたんです。
僕もとりあえず返事はしたんですが、自分の母と同じくらいの年齢のオバさんと学校に行くのは、ちょっとイヤだなと少し距離をとって歩いていました。
ふと、オバさんを見遣ると、道ばたに咲いた花の前で身を屈めていました。
どうしたんだろう?と注目すると、花の香りを嗅いでいるみたいでした。そして、小さく「いい匂い」と呟くと、また学校への道のりを歩き出しました。

その光景が、僕に取ってはたまらなく「美しいな」と素直に感動しました。

で、後日、僕は相田みつをのこの言葉と出会う事になります。
まぁ、結果から言ってしまえば暴力行為で停学になってしまい、校長先生から、相田みつをの本を読まされるという面白い罰を受けたのが原因でなんですけどね。


「美しいものを 美しいと思える あなたの心が美しい」


すなわち、オバさんの花の香りを楽しむ心の余裕も美しいけど、其れを見て心の揺れた僕の感性もまんざらでもないな、と云う事。

そう思うと、少し嬉しくなった、17歳の初夏でした。
ちなみに、何故かタバコは吸わなかったですね。当時はバスケもやってたから。下手クソでしたが。。。。

まだピュアだった、8年前の思い出です。
「一歩、前へ」

男子トイレ         お泌尿器出し

須藤元気という総合格闘家が居るのですが、彼は2006年12月31日の試合を最後に、格闘家としての人生に一区切りをつけました。



それが正しい選択だったのか間違った選択だったのかは、須藤氏本人が決める事であって、僕等にはそれを問う資格も判断する資格もなく、ただ外野でブラウン管(今は液晶やプラズマかな?)に、酔っぱらった土方のオヤジよろしくクダを巻くぐらいでしかできないんだろうなと思います。

思えば、昨年は名選手の引退が続きましたね。スキージャンプの原田選手に始まって、サッカーでは、中田ヒデやジヌディン・ジダンヌ。K-1のアーネスト・ホースト。F-1のミヒャエル・シューマッハ。そして野球では日本ハムファイターズの新庄選手。
全てが一時代を築いた選手ばかりで、正直この中に須藤氏を入れるのは本人に忍びないかな、と思うくらいの豪華キャストです。

でも、人生はスポーツだけじゃない。

須藤氏はファイターとしては超一流ではないまでも間違い無く一流でしたが、他にも、書道や執筆、音楽や役者、それに綾小路 ''セロニアス'' 翔のように「舞台演出」等も手がけることの出来るマルチファイターです。

ただ、一度演技を見た事が有りますが、はっきりいって、下手クソでした。
ですが、挑戦する事に意義が有り、彼は自らの挑戦をやめずに、色々な道を模索する姿はさながら「旅人」のようにも映ります。

その「旅人」を旅立たせる切っ掛けとは。

http://www.genkisudo.com/jp/diary/index.html

11月30日の日記を見てもらえればわかりますが、彼の切っ掛けはトイレの中に貼られた、何気ない一言でした。

「一歩、前へ」

男ならば一度は目にした事が有るとは思いますが、小便器の前にたまにこういう貼り紙が貼ってあったりします。
コレ、意味はすなわち「おしっこを飛び散らさないように一歩前に出て下さい」という意味なんですが、須藤氏にとって其の言葉は「答え」だったのだと思います。
僕は何にインスピレーションを受けようとも、どんな噛み砕き方をしようとも、「答え」は出したもの勝ちであり、柔軟な思考の人ほど意外なものから「答え」を導き出す事が出来るのだと思います。

何より、僕も3年ほど前に導き出すヒントを与えた物が須藤氏と全く同じだった事が本当にびっくりしたので、凡百人間である僕では有りますが、須藤氏へのシンパシーを感じ、今後の須藤氏の「答えの先」に注目していきたいなと思いました。

僕は3年前に、会社のトイレの小便器の前の貼り紙にこんな事が書いて有る事に気付きました。

「前進せよ」

そして、須藤氏のように、一つの答えを導き出す事が出来ました。
進まなきゃ、何も始まらないんだという事実を。。。。
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独白
自己紹介:
突然「趣味?」って聞かれてもなかなか難しいもんですね。
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